月別アーカイブ: 2014年4月

エネ散策のすすめ②

<籠神社  さざれ石>

一口に神社と言っても、色々な形態が有って、

天神様のように歴史上の人物が鎮められていたり、

御英霊が祀られていたり、はたまた渡来系の神様だったり
…。と多種多様です。

 
一方、日本古来から伝わる神社の場合は、

御神体がお山全体で有ったり、大きな岩で有ったり、滝そのもので有ったり…。
などなどの天然の造詣物や、雨、風や天変地異なんかも含めた自然現象などや、

太陽や月、星、宇宙創造や天体の運行なんかの現象やはたらきに

神名(なまえ)を与えて、人格化(神格化)したものが殆どである。

と言えるのではないでしょうか?

 
現象やはたらき、すなわちエネルギーと言い変える事が出来ると思います。
神様≒エネルギー
こんな感じのイメージが成り立つのかもしれません。

 
太古の昔は、強いエネルギーを発する特別な現象や場所を畏敬の念を込め、

神として鎮め、そこに祀った社(やしろ)の事を

神社と呼び表すようになったのではないでしょうか。
神社がパワースポットであると言うより、

本来特別なエネルギーを発する場所を神社や神域とした。

と言う方がより正しいように思います。

 
宗教的な事に囚われず、またスピリチュアルな面に偏らず、

ただ純粋にエネルギーを感じ、楽しむ。こんな時間を過ごすのも
悪くないのでは…。と思います。

 
ただエネ散策をする場合は、他の人の迷惑にならない様、

またその地に敬意をはらい、正しい参拝方法を学んだ上で、

謙虚な気持ちでエネルギーに浸らせて頂く。

と言う姿勢で出かけられる事をおススメします。

エネ散策のすすめ①

<雨上がり、晴天の籠神社>

報告事が続きます。

この前の日曜日(4/6)に天橋立、福知山方面にエネ散策に行ってきました。
昨今のパワースポットブームで神社をお詣りする若い方が増えているようですが、

それとは少し趣が異る、ただ純粋にエネルギー(気)を感じる、そして楽しむ。

事だけを目的とした小旅行で、

エネ仲間とも言うべき方々に誘って戴いて今回、元伊勢巡りをして来ました。

 
前日から、エネ散策には恒例?の禊ぎの雨とも呼ばれている風雨に。

当日も、これでもまだ来るか?と試されているかの様な、大雨と吹雪の様な雪模様。

そんな悪天候をつき進み、ようやく最初の目的地、籠神社へ到着し、

お詣りをしようと鳥居をくぐった瞬間から嘘のような青空に。

雨上がりの空気は澄んで清々しいエネルギーを身体一杯に感じます。

 
その後、真名井神社に。こちらは、優しい何ともホワッとしたエネルギーです。

 

お昼を食べて、次は福知山の皇大神社へ。

こちらへ向かう道中もやっぱり雨。

社務所を覗き込んで、神主の奥様?に色々と言われを伺っていると背中から、お日様が。

ずっとそんな感じです。

 

ただ、そこから徒歩5分の天岩戸神社に限っては、土砂降りの雨。

川の水も増水して、岩肌も滑りやすく、厳しいエネルギーに打たれました。
そんなこんなで、駐車場に戻ると良いお天気に。
何とも不思議な一日でした。

 

 

そんなエネルギー三昧を堪能した私たち一行は、

多分、他の参拝客から見たら、立派に?変人の集まりだと胸を張って言えると思います。
でも、エネ散策は楽しいものです。
治療する上での感覚も養えますし、何よりリフレッシュできてパワー?とは違う、

気づきのようなものを貰える感じがします。
また新たな気持ちで、施術に励んで行きます。

 
今回、悪天候、悪路の中、連れて行って下さって感謝しています。

一人では、きっと心が折れていたと思います。

良い経験をさせて頂きました。有難うございます。

 

 

※写真を何枚か撮って来ました。ブログの内容とは関係無く、

次回から数回に分けて
一枚ずつアップして行きます。
写真からでも、何か感じる事が出来るかもしれません。
我こそは、変人だと言う方は自己責任のもと、

何か?を感じてみて下さい。

王龍宝先生

先週金曜日のお昼休みに突然の、

そして嬉しくも有り難い来訪者が、有りました。
王龍宝先生と奥様です。

 
以前ブログで書きましたが、

治療院開業の際に「杏林満園」の額を戴き、

杏林堂鍼灸整骨院の名付けの親とも言うべき大恩ある先生です。

 
中国に帰国し、復職されていたのですがこの度、

北陸のある県に拠点を置かれて、

中国と日本とを行ったり来たりする生活に成るそうです。
そこで、今回ホームページ上の
私のブログ記事が来訪するきっかけになったそうです。

王先生が御自分の名前で検索したら、

偶然にも見事に?ヒットし記事を読むと自分の事が書かれていて、

感激しました。との事でした。

改めてHPを立ち上げて良かったと思いました。

 
この日は、関西地方でお仕事をされている娘さんを訪ねて、

夕方神戸の私の師匠のところにご挨拶に向かう道すがら

立ち寄って下さった。と言う次第です。

 
10数年ぶりにお会いする王先生は、

長身で姿勢の良い立ち姿は昔のままですが、頭髪は銀色に。

時の流れを感じます。

 
私も来年度から漢方薬(その他の薬品も含めて)を

取扱う為の資格取得に向けての準備中です。
王先生の日本における連絡先も教えて頂きましたので、

また色々と教えを請う機会を得る事ができた。
と喜んでいます。
王先生、これからも宜しくお願い致します…。です。

 
※王先生、奥様。
お土産のホタルイカ、有難うございました。

桜餅の葉っぱ、食べる派?食べない派?

恥ずかしい話ですが、最近まで知りませんでした。
桜餅にも、関東風と関西風があるのを。

 

関東風は、小麦粉などの生地を焼いた皮で、餡を巻いたクレープ状のお餅で、

もともとは享保2年(1717年)、隅田川沿いの長命寺の門番
山本新六が、桜の落ち葉掃除に悩まされた末に、考案し売り出されたもので、

一般的には「長命寺(餅)」と呼ばれています。

 
それに対して、私達に馴染みの深い関西風の方は、「道明寺(餅)」と言って、

道明寺粉(餅米を蒸して乾燥させ、粗挽きしたもの。大阪の道明寺発祥)で皮を作り、

餡を包んだまんじゅう状のお餅です。

 

 

また、餅を包んだ葉っぱをどうするか?も意見の分かれる所です。
あるアンケートによると、長命寺と道明寺どちらを食べているか?では、8割が道明寺派。
その道明寺派の約8割が葉っぱも食べる派。
逆に長命寺派の約8割が葉っぱを食べない派。
だったそうです。
もともとは、集めて捨てていた桜の葉の再利用から生まれた桜餅。
昔の人の、
エコとビジネスチャンスを結びつけた柔軟な発想は見習わなければならない所です。
その上で、どうせ付いてるんやったら食べやな損やん。的な関西人気質

(もったいない精神?)も先ほどの数字に見え隠れしている気もします。

 
桜餅の葉っぱ、食べる派?食べない派?
餡に入っている大量の砂糖(陰性)とのバランスを考えると

葉っぱの塩気(陽性)は摂った方が良いのではと、

私、個人的には考えています。

芦屋さくら祭り

商店会からお花を頂きました。
毎年、芦屋川沿いで催される「芦屋さくら祭り」に合わせて
えきにし商店街の各店舗に配られたものです。
ピンク色の花が、昨年のもの(一年経ってまた咲きました。)、

白い方が、先月末に頂いた胡蝶蘭です。

 
と言うことで、芦屋市主催行事のお知らせです。

今日5日と明日6日に今年も予定通りにさくら祭りが開催されます。

 
今週、一気に満開を迎えた桜の花も、昨日来の「花散らしの雨」ならぬ、

風で一面の「花吹雪」に。
川面に舞い散り、流れるさまは、まるで「花筏(はないかだ)」。
趣があります。
今日、明日は「花冷え」で少々
気温が下がる様ですが、桜の花はまだまだ見頃です。
市民参加の露店や、ステージなど盛りだくさんです。
患者さんでも、バザーや食べ物屋さんでの出店や、

ダンスや楽器演奏での出演を予定されている方が居られます。

私も施術が終了しだい、立ち寄ってみたいと思います。

 

芦屋さくら祭りに是非お越しください。

両日ともにお天気が心配ですが、お出かけには

雨具と上着をお忘れなく。

JRなら、えきにし商店街を通って真っすぐ西に、

阪急なら、すぐ南に、

阪神からも、すべて徒歩圏内です。

 

思いは、必ず通じる。

20年以上前の話です。
現在の杏林堂鍼灸整骨院を開業する以前、

神戸のある治療所で勤務していました。
その時は、既に結婚して長男も誕生していました。
仕事をして、勉強もしてという生活でしたし、

もともときっちりと計画を立てて予定通りに進めて行くタイプの性格だったので、

子供が生まれた事によって生じる
予期せぬ出来事や、雑事に、ペースが乱されっ放しでした。
思い通りに行かず、イライラしてばかり。
何とか、一人になって自分の時間が欲しい。と何度も思いました。
そこで、私の師匠でもある院長先生に相談する事にしました。

 
院長には、子供さんが6人居られたのです。
私の場合は、一人でも音を上げているのに、

6人もの子供さんと、どうされているのだろう?
イライラしたり、私みたいに一人になりたい。なんて考えたり
しないのだろうか?と。

 
私の問いに師匠は、こう答えました。
「思いは、必ず通じる。だから
僕は、口が裂けても、一人になりたい。とは、絶対に言わない。」
「えっ、それは逆では?」
「最後迄、よく聞きなさい。人間の願いは、いつかは叶えられる。

でも、それは直ぐにでは無い。必ず時間差というものがある。

その思いを忘れた頃、手放した時に思いがけず叶うものなんだよ。
自分が年をとって、身体が不自由になって誰か側にいて欲しいなぁと思った時になって、

天はその思いをようやく叶えてくれる。

周りに誰も居なくて一人ぼっちだったとしても、恨んだり、嘆いたりしては
いけないよ。それは、自分自身が強く
願った事が、時間が経って叶えられただけなんだから。

思いは、通じる。
だから僕は、一人になりたいなんて考えたりは、しない。」

 
私は、師匠の言葉に何も答えられませんでした。
人の思いは、必ず天に通じる。
それ故に、何をどのように思うかをしっかりと精査する必要がある。

そして、その事に責任を
持たなければ行けない。と言う事を師匠は、伝えたかったのだと思います。

 

 

それ以来、自身の予定通りに行かず、イライラする様な時も心の中で、

そっとこう呟くようにしています。

「どんな時でも(あんな事やそんな事も)、

君と一緒に時間と空間を共有する事が出来て幸せだよ。ありがとう。」
そう言って、大きく深呼吸してみます。

 
そんな私も、師匠には遠く及ぶませんでしたが、

何時の間にか4人の子供の父親をさせてもらっています。

想像してごらん。

「子供といる時間を質か?量か?ではかるなら、

間違い無く「量」だと答えるだろう。」
インタビューの取材で、こう語っていたのは、

ビートルズのメンバーでも有ったジョン.レノンその人です。

 
彼は、こうも続けています。
「何をしたか、よりもどれだけの時間を過ごしたかが大切だ。」
「何か特別な出来事じゃ無くて、何気ない日常の積み重ねが
重要なんだ。」
1975年に誕生した、オノ.ヨーコとの子供、

ショーン君について尋ねられた時のジョンの心情です。

 
彼が、そんな思いに至ったのには、其れなりの理由がありました。
1962年にビートルズとして、最初のシングルをリリースするのですが、

その年にシンシアと結婚。
翌年1963年に第一子、ジョン.チャールズ.ジュリアンが誕生します。
しかし、超多忙なビートルズの活動とオノ.ヨーコとの関係も生じ、

子供さんが5才の秋に離婚を余儀なく為れました。
その翌年1969年春にヨーコとお互いに再婚します。
何度かの、流産や別居ののちに
1975年10月にようやく
ショーン.タロー.オノ.レノン君が誕生したのです。

 
ジョンも初めての子育ての時に
ビートルズ時代の莫大な富を与える事は、出来たのでしょうが、

一緒に過ごした記憶という財産を残すことは出来ませんでした。
その時の後悔の様なものが有ったのでしょう。
冒頭の言葉の通り、実際ショーン君の子育ての間、

音楽活動を一切休止して子供との時間を大切に最優先させました。

 
最初の子供さんと分かれた時の年齢である
5才を過ぎた1980年11月になってようやくアルバムをリリースし、活動を再開。
しかし、翌月12月8日ご存知の通り、凶弾に倒れ帰らぬ人と為ってしまいました。
結局、彼の二度の子育ては奇しくも共に
五年間で終わっています。

 
もし、彼が今も生きて父親業を全うしていたら、

二回の子育てを通してどう感じ、どの様に語っていたでしょうか。

子育ては質か?量か?

今と為っては、想像を巡らしてみるより、方法は有りません。
彼は、子供たちが生きる世界の未来に何を見ていたのでしょうか?

そして何を伝えたかったのでしょうか?
想像してごらん…。

 

 

※ジョン.レノンの言葉は、きちんと文献を当たった訳では無いので、

正確なものでは有りません。
ただ、語っていた内容についてはこんな感じです。
何卒、ご容赦のほどを。