オフィシャルブログ

カテゴリー別アーカイブ: 言葉のこと

今日から師走です。

今日から12月。
今年も残すところあと一ヶ月となりました。

 
日の暮れるのも早くなって、

なんと無く一日の終わりが慌ただしく感じます。

 
患者さんでも、主婦の方などは

「12月の声を聴くと、特に何をするわけでも無いのに、気ぜわしく感じる。」

と言われる方が多いです。

 

 

年賀状や、大掃除の準備、年一年間のやり残した事柄を

あれやこれやと思い起こしながら、

結局何も出来ないで毎年、新年を迎えてしまう…

なんてことが大抵でしょう。

 
主婦も、お勤めの方も、学生さんも、年配の方も、

皆さん結構忙しいのです。

 

 

「師走」は、年末で日頃落ち着いている「先生」でも

忙しくてアタフタと走りまわる月…だとよく言われていますが、

他にもいろいろな説があって、

「師」は「師僧(師匠である僧)」のことで、

僧侶がお経をあげるため、仏事で慌ただしく馳せる

「師馳す(しはす)」に由来している…とも言われています。

 

 

また、そもそも教師もお坊さんも走らないんだよ…という話しもあります。

 
万葉集や日本書紀には、

「十二月」と数字で書いて「シハス」と読んでいます。

 
「しわす」が「師走」という漢字を当てて書くようになったのは

江戸時代からだとされています。
つまり、後世の当て字というわけですね。

 
「しわす」とは、年が終わる「年果てる」や、

四季の果てる「四極(しはつ)」が変化したとも言われています。

 

 

「しわす」は単純に、「あぁ、一年の終わりだなぁ。」という

心持ちを表しただけで、それを忙しくしたのは現代人の我々…
ということかもしれません。

 

 

漢字で「師走」なんて書くもんだから、

何か無理にでも忙しく走りまわらないといけない…

みたいな気分にさせらてしまいますが、

ここは一呼吸入れて落ち着いてゆったりと過ごしましょう。

 
慌てて怪我をしたり、体調を崩したりしたら、

何のことか分かりませんから…。

紅葉狩り

秋の行楽シーズン。
京都などの各名所に紅葉狩りに

出かける方も多いのではないでしょうか。

 
紅葉と書いて「もみじ」と呼ぶ。
そして、その「もみじ」を狩る。
何とも、突っ込みどころの多い言葉です。

 

 

「紅葉狩り」を辞書で引いてみると、

「山野に紅葉をたずねて楽しむこと。観葉。」とあり、
必ずしも狩猟、採取するわけでは無いのがわかります。

 
山野などに分け入って行く行為自体を

「狩る」と表現しているそうです。
同じような意味で、ぶどう狩り、キノコ狩り、

イチゴ狩りなんて言葉があります。
(あれ?全部、採取してるし、

イチゴなんて山野じゃ無くてビニールハウスじゃん。)
それに、「潮干狩り」みたいに海辺でも狩ってるけど?
と数々の疑問が湧いてきます。

 
しかし、新明解国語辞典(第7版、三省堂)には、

こうはっきりと書いてあります。


「見て楽しむこと。」

そうなんです。紅葉は見て楽しむものあって、

くれぐれも持ち帰ることの無いように…と。

 

 

「狩り」の意味はわかったとして、

そもそも何故「紅葉」と書いて「もみじ」と呼ぶのでしょうか?

 
これも調べてみると、もみじという言葉は

「草木の葉が赤、または黄色くなる。」という意味の

動詞「もみず」に由来するそうです。

 
では、この「もみず」の語源は何処から?
それは、染め物の「揉み出ず(もみいず)」のようです。
紅花染めで、花びらに含まれている

紅色と黄色の色素を「揉み出す」ことから、

紅く色付くことを「もみじ」と呼ぶようになったそうです。
紅花だけに、「赤葉」では無く「紅葉」なのも納得できます。

 

 

まあ、実際の紅葉は揉み出されて紅くなるわけでは無く、

日照時間や急激な寒暖差から来る

ストレスによってもたらされている…と言われています。

 
今年は、11月に入って雨が多く、

気温も比較的高めだったせいか、

紅葉の色づきはもう一つ?な感じがします。

 
寒暖差ストレスによるアレルギーを取るか、

綺麗な紅葉を愛でる方を取るか?

悩ましいところです。

「今」を生きる。

東洋医学での病気の原因のひとつに「内因」があります。

 
人間には喜、怒、思、悲、憂、恐、驚の

七つの感情(七情)があるとされています。
この感情が度を越して、過ぎたり、長期にわたって続くと

「内因」となって心身の健康を蝕むもととなります。

 

 

だから、感情は出来るだけ表に現さずに、

常にポーカーフェイスを心がけましょう。
その為には、瞑想をして「心」を鎮めましょう。
なんてことは、絶対にあり得ません。

 

 

そもそも怒りや、悲しみや喜びは人間が生きていく上で、

正常で当たり前の反応であり、表現法の一つでもあります。

 

 

嬉しい時には多いに喜び、悲しい時にはワンワン泣いて

悔しいときには大声で叫んだって良いんです。
それは、正常で健全な感情の表現…なんですから。

 

 

それを我慢して溜め込んだり、感じないフリをして誤魔化したり、

またいつまでもその感情に囚われてしまうことが「内因」なのです。

 
その場で上手に表現して、パッと忘れてしまえれば「内因」には為りません。
「泣く」ストレス解消法だってあるくらいですから…。

 

 

正常な感情表現か?「内因」か?

その違いは何処にあるのでしょうか?
それは、「何時(いつ)」にあります。

 

 

上手に表現することが出来ずに溜め込んだり、

ずっと一つの感情に囚われている人は、

「過去」に生きています。

 
辛いことや悲しかったこと、あんなことやそんなこと。

あの時、こうしていれば良かった。
それは「今」では無い、「過去」の出来事です。

 

 

もし、そうなったらどうしよう?考えただけで不安になる。
これから起きるかも(起きないかも)知れないことを先暗示ばかりしてしまう。
それは「今」では無い、「未来」に生きています。

 

 

内因は、今現実に目の前で起こる出来事では無く、

過去や未来のいわゆる実態の無い感情に

囚われ過ぎることで生まれるのです。

 

 

自分のエネルギーのほとんどが、

過去か未来に行ってしまっているわけです。
これでは、エネルギー不足で病気になっちゃいますよね。

 

 

「今」を生きること。
更に言えば、
今、ここに生きること。
更に、更に言えば、
今、ここに、自分自身を生きること。

 

 

これが、健康で健全に生きるコツ…です。

今を生きていますか?

もったいない

ある程度の年配の方に話を伺うと、

「私達ぐらいの年齢になると、今の若い人達みたいに

「もったいなくて」何でも物を捨てる事は、出来ません。

戦争を経験してるから、いつかまた使う事が

あるかもしれないと思って、取っています。」と、

殆どの方が異口同音に仰います。

 
でも申し訳無いのですが、その
「いつか」は、いつ遣ってくるのでしょうか?

 
それと、「もったいない」のでしまって置く。
というのもちょっと違う感じがします。

 
「勿体無い」
漢字で書くとこう為ります。

 
略字なので、正確に書くと「物体無い」となります。

 
国語辞典などで意味を調べると、

「勿体」を無しで否定した語。

勿体の「重々しさ」「威厳さ」などの意味から

勿体無いは、

物の本来在るべき姿が無くなるのを惜しみ、

嘆く気持ちを表している。
と書いてあります。

 
「物の本来在るべき姿」
物は本来、その用途に応じて

「使われて」こそ価値の在るもの。のはずです。

 
それに「物体無い」は本来、仏教用語で、

「物体無し、仏身在り。」から来ていると言われています。

 
今あなたの目の前にあるその箪笥は、

ただ単なる「物体(ぶったい)」ではありません。

そこには、仏様が宿っているのです。
という訳です。

 
仏様と言えば語弊が有れば、

それを「生命(いのち)」と言い換えても良いと思います。

 
鉛筆で有ろうが、お茶碗で有ろうが、

どんな「物」でも等しく「生命」が宿っているのですよ。
だから、その命を大切に活かしてあげましょう。
というのが、本来の「物体無い」の意味だと思います。

 
エコだの、リサイクルだのと言うのとは、

ちょっと違うように思います。

 
ですから、その生命を精一杯活かす為にも、

「物」は仕舞いこまずに使ってあげて下さい。

 
もし必要で無い物ならば、

何処か別の場所で活かされるようにしてあげて下さい。

 
それでも、どうし様も無い。
でも、捨てるには忍びない。
そんな場合は、捨てるのでは無くて

「成仏為せて」あげると考えたら、どうでしょうか?

 
「今まで有難う。」と言って供養するつもりで手放す。

 

何せ、「飼い殺し」ほど

「物」に取って残酷な事はありませんから…。

 
それこそ「物体無い」…です。

片付ける(断捨離)

台風19号が通り過ぎて、昨日あたりから

一気に気温が下がり、急に秋めいて来ました。
昼間と朝晩の寒暖の差が大きく、

なかなか体調管理も難しくなっています。
風邪を引かれたり、アレルギー症状が発症されている方も

多く見受けられます。

 
気象病で、気圧の変化(特に低気圧)について、

以前このブログでも取り上げましたが、

また気温の変化に関しても書いていきたいと思います。

 

 
10月1日が一応、衣替えの日では有ったのですが、

気温が一定せずに、お布団や衣類の出し入れが片付かずに

そのままだった方も多いと思います。

 
患者さんの中でも衣替えに限らず、

最近流行りの「断捨離」で、

家の中や持ち物を整理しようと

頑張ってられる方もいらっしゃいます。

 
「終活」では無いのですが、

そろそろ身辺整理を…と考えられての行動。

という方もおられます。

 
でも、皆さん一様に

「しんどい。クタクタや。」と愚痴をこぼされます。

 
なかなか思い切れない。
踏ん切りが付かない。

 
それはそうだと思います。
思い切るとは、色々な「思い」を断ち切ることですから。

 
「思い出」が詰まった品々。
思い出は、重いで〜。(ひどい洒落です。)

 
そして、踏ん切る(糞切る)には、

決断(ケツ断)力が必要です。(これも、ひどい洒落。)

 
「片付ける」って、文字通り今までの生活、

大袈裟に言えば「人生」に

「カタをつける」行為になるわけですよね。

 
これ迄の歩みを改めて振り返って

必要な物、必要で無い物を選り分けて行くって

本当に骨の折れる作業だと思います。

 
でも、肩や背中にずっしりと懸かった「重い」を

少しでも軽くする為にも「断捨離」。

 
この衣替えの時期に「ついでに」、

思い切って片付けてみてはいかがでしょうか?

覚るを悟る。

院長先生から宿題を出されてから約20年。
あれから、片時も忘れること無く答えを求め続けた日々…。

 
なんてことは全く無く、完全にその場限り…でした。
その意味を深く掘り下げて考えることすら、ありませんでした。

 
しかし、ブログを書き始めて「すべての人生は、実験だ。」
なんて言っていたら、ふっと思い出したものでした。

 
数多くの方と接し、施術を通して

その方の人生に多少なりとも関わらせて頂きました。
そして、其処からいろいろなことを学ばせて頂きました。

 
「覚るを悟る。」
院長先生が、伝えたかったのは

何となくこんな感じではなかったのかなぁと

最近思うようになりました。

 
それは、
生まれたばかりの赤ちゃんや、純真無垢な子供達。
それに、犬や猫なんかの動物たちや、

花や樹木などの植物。
皆んな、大自然に抱かれて育まれています。

 
私達、大人の人間よりもある意味、

自然の摂理や、宇宙の真理といったものに近い存在。
と言えるかもしれません。

 
「覚る」:宇宙の真理を直観的に気付く。

 
もしかしたら、動物や、植物や赤ちゃんなんかは、
生まれながらに覚りを得ているのかもしれません。

 
でも、自分が覚っている事実を知りません。
比較するものが無いので、

それが「覚り」の状態かどうか気付きようが無い。
と言った方が正しいのかもしれません。

 
そんな状態から、私達は皆んな成長し、

良いことも悪いことも、楽しいことも苦しいことも、
いろいろな経験を積み、

時には怪我をしたり、病に倒れたりしながら、

思考を巡らせ感情をコントロールする術を学びます。

 
幸せになる為に。
人生を願い通りに…では、無くて思い通りに生きる為に。
日々、逡巡するのです。

 
そしてある時、ふっと気づきます。
こう考えれば良いじゃあ無いか…と。

 
それが「悟り」です。
経験によって知識を身に付けて自ら理解する。気付く。

 
そして、その気付いた事柄は?
「へえー。そうだったのか‼」
では無くて
「何だ。そういうことか。」
ということばかりです。

 
昔から知っているし、よく聞いてもいた。
そんな単純で簡単なことだったんだ。
そんな感じだと思います。

 
何せ、生まれながらに皆んな備わっている感覚ですから。

 
「覚るを悟る。」
天から与えられた資質を経験しながら学び、自らのものと為る。

 
人生とは、いわば「覚るを悟る。」為の壮大な実験の場。
なのかもしれません。

 

 

これが、「宿題」の答えかどうかは、分かりませんが、
何となく自分なりに「腑に落ちる」感じがします。

 
でも案外、20年後にはまた別の「悟り」を得て、

正に「心眼を開いた。」と言っているかもしれませんが…。

覚悟を決める。

「潔くある為に必要なものは何か?」

 
院長先生は、こう続けられました。
「それは、覚悟だよ。」

 
「そう言われると、皆んな「なぁんだ。」と思うだろう。

潔さと覚悟を決めることって、何となく似通った感じがするからな。」

 
「じゃあ、改めて「覚悟」とはどんな意味なのか。

皆んな解るかい?」

 
「覚悟の「覚」は、覚り(さとり)で、「悟」も悟り(さとり)。
つまりは、ダブルのさとりってことだな。」

 
「でも、覚りと悟り。この違いは、解るかい?」

 
「覚りの方は、感覚の「覚」で、いわば感覚的に理解する。
直観的に気づきを得る。ということだ。」

 
「悟りの方は、経験によって知識を身に付ける。

いわば、智恵による気づき。」

 
「また、覚には宇宙の真理を覚る。

自分以外の世界の成り立ちを知る。という意味もある。」

 
「つまり「覚」は、直観的に宇宙の真理を覚る。と為る。」

 
「かたや「悟」は、吾(われ)という文字が表すように、

自分自身のことを悟る。自分自らが悟る。と為る。」

 
「これ等を全部合わせて考えると、

覚悟とは、世の中の成り立ちを知って、

自分がどうするのかを自ら決めること…。だと言える。」

 
「よく人間は、覚悟するだの、覚悟を決めるだのって、

簡単に口によるけれど、本来は其処に

「気づき」や、「さとり」といったものが無いと

空回りしてるのと同じことだ。」

 
「本当の意味で、覚悟が決まった人の行い、

生きざまは清々しくも潔い。と言えるだろう。」

 
「男らしさは、潔さ。なんてさっき話をしていたが、

これは何も男だけに限ったことじゃあ無いなあ。」

 
「少し長くなったが、覚悟の意味。分かったかな?」

 
「ああっ、そうだ。もう一つ
大切な意味があったのを忘れていたよ。

いや、これは今言わない方が良いだろう。

自分で気づく、いわば悟り。
つまり、宿題だな。
まあ、ヒントだけ。

「覚るを悟る。」ということで、

今日はお開きにしようか。」

 
「ええ〜。そんなぁ。」

続きます。

男らしさは、潔さ。

「潔い」のことを書いていて、

ふっと思い出すことがありました。

 

以前(といっても、20年ほど前に為りますが…。)、
私の師匠との会話のことです。

 
院長先生の治療所に見学に伺いその後、

他のスタッフ数名とお酒を飲みながら、話が盛り上がり、
どういった経緯かは忘れましたが、

「本当の男らしさとは」とか、「真のリーダーとしての資質とは」

なんていう難しい話に向かって行きました。

 
院長先生が、

「君らは、男らしさを一言で言い表したら、どう表現する?」

「一人ずつ、述べなさい。」

 

 

そこで、皆んなはそれぞれ答えていきます。
「男らしさは、力強いことです。」
「包容力です。」
「さっぱりと竹を割った様な性格です。」
「経済力です?」
いろいろと出ました。

 
因みに、院長先生はボディービルダーであり、

少林寺拳法の達人でもあり、

武闘派としての一面も持ち合わせておられたので、

ある程度その辺も念頭に置いて
皆んな答えている感じでした。

 
「じゃあ、吉田君はどう思う?」
既にひと通り解答が出ていたので、少し考えた末に、

ちょっと違う方向で攻めてみようと思い、

「自分に正直な人だと思います。」と答えました。

 
するとその瞬間、その場で空気が盛り下がるのを感じました。
(な〜に〜。やっちまったな〜。)
byクールポコ

 
恐る恐る院長の顔を見ると、反応は意外なものでした。
「なかなか、良い処を突いてるじゃないか。」
「えっ、そうなんですか。」

 
「皆んなも憶えておいたほうが良い。

男らしさとは、何も喧嘩が強いとか、

行動力があるとかじゃあ無くて一言で表すと、
潔さ…。
と言って良いと思うよ。」

 
「潔さ…。ですか?」

 
「そうだよ。「いさぎよし」とは、「いさ」が、

「勇む」や「いと」を表して、
「きよし」はそのまま「清し」だ。

つまり、
「勇んで清し」、「いかにも清い」という意味だ。」

 
「卑怯なところが無い。責任転化をしない。

常に正々堂々としている様を表しているんだ。」

 

 

「なるほど。男らしさは、潔さか。」

 
「そういった側面から考えると
真のリーダーとしての資質も自ずと分かってくるだろう。」

 
「それは、常に「出処進退を明らかにする」ということだよ。
身の処し方や、責任の所在を常に明確にしておくこと。
それが出来る人こそが、真のリーダーに相応しい人だと思うよ。」

 
「確かに、そうですね。」

 
「それは良いとして、吉田君。

では、潔くある為には何が必要だと思う?」

 
「ええ〜。それは…。」

 
続きます。

棚からぼたもち?

「棚からぼたもち」という諺(ことわざ)があります。
思いがけず幸運を得ること。
労せずして良いものを得ることのたとえ。

とされています。

 
口を開けていたら、ぼたもちが勝手に落ちて来た。

なんて例も、書いてあったりします。

 
でも、本当にそんな「おいしい話」って、あり得るのでしょうか?
ちょっと考えてみましょうか。

 
棚からぼたもちが落ちて来たという事は、

棚の上にぼたもちが置いてあった、訳ですよね。
じゃあ、いったい誰がそのぼたもちを

棚の上に上げていたのでしょうか?

 

 

 

お彼岸の仏様へのお供物であるぼたもち(おはぎ)も、

もともとは神様に捧げる「かいもち」に由来しています。

 
お仏壇に供えたお餅は、お下がりで戴いたけれど、

高いところに在る神棚のは、すっかり忘れてしまっていた…

なんて事は無いでしょうか?

 
捧げたことも、お下がりで戴くこともすっかり忘れてしまう。
そんな見返りを求めない、いわば「無償の愛」とも言える行動が、

巡り巡って戻ってきた「天からの授かり物」…?

 
おいおい、そんなすっかり忘れていたような「ぼたもち」なんて、

カビだらけでとても喰えたもんじゃ無いだろう。
なんて、そんな話をしている訳では、ありません。
これはあくまでも、例え話です。

 

 

先日、「アリババグループ」がNY株式市場に上場し、

総資産額が、25兆円に達した。という報道がありました。

 
その際に、筆頭株主であるソフトバンク孫社長の、

14年前に出資した20億円が、

4000倍の約8兆円の含み益となって戻ってきたという話が、

多いに話題になっていました。

 
でもこの話って、いわゆる「棚ぼた」なんでしょうか?

 
たった5分で、ポンと20億円。
ジャック.マー氏の将来性を見通しての

先行投資…という面も勿論、有ってのことでしょう。
でも、それが全てでは無い。という事は容易に想像出来ます。

 
孫社長が投資されたのは、何もマー氏だけでは無い筈です。
数多くの若手起業家に融資した資金のほとんどは、

もしかしたら回収出来ていないのかもしれません。

いや、始めからそんな事は期待すらしていなかったのでは…?

 
将来有望な若手起業家育成の為に、

見返りを求めずに採算度外視で投資する。

いわば、無償の愛で行動する覚悟が有ったからこそ、

14年経って複利を付けて戻ってきたのでは無いでしょうか。
(済みません。全て推測で、勝手に持論を展開しています。)

 
棚ぼたのコツは…。
先ず、ぼたもちを棚に置く。
そして、それを忘れる。
ですよね。

 

 
でも、棚の上にぼたもちを上げておくのは、

何も「自分自身」に限った訳では、ありません。

 
目に見えない存在、ご先祖様がせっせと積んだ「徳行」というお餅が、

今生きている私達に「思いがけない幸運」という

「形」になって現れているのかも知れません。
(多分、こちらがほとんどでしょう。)

 
そんな「感謝の意」も込めて、

お彼岸にぼたもち(おはぎ)を、供えます。

生きるとは、息をすること。

「まだ生きてるよー。」
某梅酒メーカーのCMのおじいさんみたいに、

直ぐに反応が有れば分かり易いのですが、

声を掛けても言葉や表情といったサイン(表現)や、

反応が無くて「これは、大丈夫?」となった時、

皆様はどう為れますか?

 
多分ほとんどの方が、
・脈は、有るか?
・息をしているか?
を先ず、診て、確認されると思います。

 

 

この「呼吸」と「脈拍」の2つに

「体温」、「血圧」そして「意識状態」を加えたものを

「バイタルサイン」と呼びます。

 
バイタルサインは、医療における生体情報、

特に生命維持に必要な「生命兆候」を意味します。

 

 

「肉体」を介して、発する「生命」の表現。
今、「生きている。」というサイン。

 
特に呼吸は「息をしている。」
から、「生きている。」という言葉になった。

と言われるぐらいに、生命(いのち)と直結しています。

 

 

息の仕方に、その方の生き方が表れる…。

なんて言い方を為れる先生も、中には居られます。

 
では、皆さんは今、どんな生き方(息の仕方)をされていますか?

 
浅いか、深いか?
楽に、息が出来ているのか?

息苦しかったり(生き苦しい)、

息詰まる(行き詰まる)感じがしていないか?

はたまた無理に突っ張って、粋がって(息が上がって)いないか?

 
そんな時は、ちょっと一息。
肩の力を脱いて、大きく胸襟を開いて先ずは、深呼吸。
そして、横隔膜を動かしてお腹の底から、笑ってみましょう。
何もかも笑い飛ばして、笑顔に成れたら、

まだまだ「脈は有ります。」

 
後は、一緒に息を合わせて、(息を)調えていきましょう。
おまかせ下さい。