月別アーカイブ: 2014年9月

共感覚

芸術家や天才と呼ばれるごく一部の人達のみが、

有していると言われるある特殊な、

そして共通した感覚があります。

 
それが、「共感覚」です。

 
これは、一つの感覚刺激が別の感覚を引き起こす。

と説明される現象です。

 
例えば、文字に色を感じたり、

音に色を感じたり、形に味を感じたり…。
数式を見て、その美しさに恍惚となる数学者や、

1つ1つの音が立体的に交差する図形の様に見える音楽家や、

1つ1つの色に音階があり、その色の組み合わせでメロディーを紡ぐ画家など…。

 
歴史的な素晴らしい作品や、世紀の大発見などは、

そんな能力「共感覚」が関係しているのでは…と言われたりします。

 
この共感覚を手がかりに主観的な心の世界と

客観的な脳との関係を探ろうとする研究が

継続的に行われています。

 
生まれたばかりの赤ちゃんは誰でも、

視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚等の

異なる感覚がまだまだ未分化なままです。

 
その後、成長による感覚の発達に伴い、

「共感覚」は失われていくのです。

 
しかし、中には何らかの理由で、

それが保持され続けている人達がいるのです。

 
そんな特殊な感覚を得たいが為に、

薬物に手を染めてしまうアーティスト達もいます。
特に、LSDなどは、音楽に光とさまざまな色彩が交錯し、

この世のものとは思えない鮮烈なイメージに浸れるのだそうです。

 
これなどは、完全に論外ですが、
では、私たち一般人が薬物に頼らずに、

そういった能力を得る方法は無いのでしょうか?

 
可能性としては、有ります。

 

 

それは「心」と「脳」の関係と、

実際の刷り込みとも言える行動…です。

 
続きます。

第6感?

見えないものが見える。
そこに無い存在を感じる。
何かが聞こえる。

 
こういった現象はある種、

選ばれた人だけの特別な能力なのでしょうか?
それとも、幻覚、幻聴といった類いのものでしょうか?
あるいは、単なる思い込みや勘違いかも?
ある意味、どれも間違いではありません。

 
よく、閃きや直感や心の声、

前述のような能力なんかを「第6感」と呼んだりします。

 
5感を超越した感覚、

普通では説明のつかない不思議な出来事…。

のように思われますが、

ほとんどの場合、そんな不思議なものでも無く、

大抵は説明がつきます。

 
見えたり、聞こえたり、感じたり、ふと浮かんだり。
これら全てが、5感を通じての生体反応です。

 
現実には存在しないものを見る。

これは、脳の錯覚が引き起こす現象です。

 
私たちには見えないけれど、

本当は実際に存在しているものを、

ありありと目にしているというのなら、

それは普通に視覚を通した脳の正常な反応です。

 
幻覚であれ、何であれ、

全てが「肉体」を通じて起こる生体反応なのです。

 
風鈴の音を聞いて、実際には吹いていない風を感じる。
その場所に居ないのに、情景がありありと浮かぶ(見える)…。

 
エネルギー(気)感覚なども同じです。
何となく温かい感じがする。

逆に冷たく感じる。ピリピリする。嫌な感じがする。

重量感が有る。大きい、小さい。
丸い感じ、ゴツゴツした感じ、尖った感じ。

 
どれも、実際に目に見える「かたち」として

存在するわけではありません。
でも、「何となく」ですが感じます。

 
これこそが、記憶と情動と5感が結びついて起こる

脳の錯覚であり、それを利用して行われる

情報の書き換えと言えます。

 
そして、これらの感覚を開発する、

或いはアップさせる方法(可能性としての)が…。

 
それは次回に。

「ありのまま」「今のまま」

よく人間の意識は氷山に例えられます。
普段、私達が意識している部分を「顕在意識」と言い、

ほんのちょっとだけ海の上に出ている部分を指します。

 
そして目にすることが出来ない海中に沈んでいる部分、

つまり意識の大部分を占めるのが、「潜在意識」=無意識です。

 
表層に表れるている意識は、社会的文化的な欲求、

つまり「より人間として」「より自分らしく」といった願望。

 
深層にある無意識は、ずばり「生存の欲求」です。
さらに、この無意識の部分は、

個人的無意識と更に深奥に広がる

集合的無意識によって構成されています。

 
さしずめ、個人的無意識を「細胞」の意識、

集合的無意識を「種(しゅ)」の意識と呼ぶことが出来るかと思います。

 
そして、その無意識の最大の目的は

「安全、安定、安心」を得ることです。

 
生命維持(種の保存)にとって一番避けるべきは、「変化」です。

 
無意識それ自体には、夢も希望も、

また善悪も損得もありません。
ただ望むことは、現状維持=変わらないこと。
それが1番安全なのです。

 

 

「自分らしく生きる」ことを意識は望み、
「安全に生きのびる」ことを無意識は求め、

 
「ありのまま」に生きたいとつぶやく意識に、
「今のまま」が一番よ!と無意識はささやきます。

 
「生命を維持すること。」
この根源的な欲求は非常に強大です。
「安全、安定、安心」を脅かす「変化」に対しては、

全力で阻止しようとします。

 

 

(いや、無意識にとって一番の脅威は「変化そのもの」よりも、

変化に対する「恐れ」と、

変化へと誘う(いざなう)存在への「疑い」なのですが…。)

 
それこそが、潜在意識にアプローチする事を

困難にしている理由です。

 
では、どうすれば良いのでしょうか?

 
その方法が、恐れや疑いといった

「記憶」と「情動」が結びついたものが

「五感」を刺激して生ずる、

脳の「錯覚」を利用して「情報の書き換え」を行う…。
というものです。

 

 

※具体的なことは、さまざまな事象と共に

また改めて紹介して行きたいと思います。

 
次回は、ある種の能力開発について…です。

潜在意識=無意識

お金持ちになりたい。
素敵な結婚相手とめぐり合いたい。
ダイエットして綺麗になりたい。

 
いろいろな願望があるにも関わらず、

現実はなかなか思うように行きません。
それは、貴方の「潜在意識」が邪魔をしているからです…。?

 
願望達成や成功法則などの「自己啓発」関連の書籍等では、

この潜在意識という言葉を必ず目にします。

 
「希望を実現する為に潜在意識にアプローチしましょう。」
その為の方法もいろいろと紹介されています。
瞑想法や、睡眠法。紙に書いたり、何度も声に出したり。
でも、いろいろとややこしそうです。

 
恋愛願望を口にしても、それが叶わないのは、

潜在意識では「それ」を望んでいないからです。とか、

 
○○がしたい。○○が欲しい。
それは結局、現状○○を手にしていない、持っていないことを

逆に、強く意識させているだけです。とか、

 
○○にならない様に、などの否定語は駄目です。とか、
じゃあ、一体どうすりゃ良いんでしょう?

 
先ずは、「潜在意識」をちゃんと知る必要があります。

潜在意識は、顕在意識に対して意識に上がらない領域、

「無意識」とも言い換えられます。

 
では、その無意識とは意識の無い、

何も感じていない状態を指すのでしょうか。

そうではありません。

 
それは、最も深層の部分、

いわゆる原始的な意識とも言えます。

 
つまり、「生きる」こと。
この肉体を維持し、次に繋げる。

種の意識、細胞の意識とも言えます。

 
続きます。

錯覚と情報の書き換え

8/28日、理研の利根川進博士らの研究チームが

遺伝子操作したマウスを使い、

「嫌な記憶」を「楽しい記憶」へと、

情報を書き換える実験に成功した。

という報道がありました。

 
人間やマウスの脳では、

「海馬」と呼ばれる部分が「出来事」を記憶し、

それが快か不快だったかは、

「扁とう体」に記憶されると考えられています。

 
利根川博士らの研究では、

雄のマウスを小部屋に入れて、電気ショックを与え、

海馬の特定の神経細胞群を活性化させて

「小部屋の中は怖い。」と記憶させます。

 
そして再度、この細胞群を「光」で活性化させると、

小部屋の外でも、思い出して恐怖で身をすくめる反応を示しました。

 
ところが、同じ神経細胞群に光を照射しながら

雌のマウスと一緒に過ごさせると、

今度は「楽しい経験」として記憶され、

小部屋に入れても恐怖反応を示さなくなったというのです。

 

 
「記憶を書き換える」と言っても

過去の出来事そのものが変えられるわけではありません。
その出来事に対する「反応」に変化が生ずる…という事です。

 
例えば、怒られてばかりで「辞めてやる。」と思っていたクラブ活動も、

いざ卒業となると全てが良い思い出に。
失恋のショックで泣き明かした日々も、

幸せな結婚生活を送っている今では、

意識にすら上がることがありません。
また、無愛想で変わり者のオジさんの態度が、

大学教授だと知ったとたんに、

何だか威厳に満ち溢れたものに見えて来ました。

 
どれも、海馬から扁桃体へ繋がる神経細胞群に「光」刺激を与える。

つまり、情報の書き換えが行われているわけです。

 
今回の研究結果はうつ病などの心理療法に、

将来応用出来るだろう。との事でしたが、

それだけで無く「痛み」や「機能障害」などなど、

様々な疾患にも有用であると考えられます。

 
また、情報の書き換えは治療行為にとどまらず、

「潜在意識」と呼ばれる領域にも…。

 
そのお話は、次回に。